サイクリング部 買い物日記
サイクリング部です☆
ブログを任されどうしようかと考え、ロードバイクを買ったときのことを書かせてもらおうかと思います。
2010年5月に当院に就職した頃、何か運動を始めたいなぁーと思っていました。
そこにロードバイクいぃよ♪と同じ病棟の方からロードバイクの魅力について聞かせてもらい、いゃ、ロードバイクいぃなぁ~買っちゃおかな~けど高いっちゃ高いしな~と迷ってました。
何より中学くらいからろくすっぽ運動をしてこなかった私。
もしロードを買ったとして、サイクリング部に入ったとして、ロングライドについていけるんかなぁ?とも思い迷ってました。
けど最近街でよくかわいぃ本気自転車を見てて、興味はもともとあったのもあり、ネットでロードバイクをいろいろ検索し、あ、これかわいぃ♪みたいな感じでどんどんテンションが上がり、いや、買うならこれかな♪なんて感じに気がついたらなっちゃってました。
ま、お金もないし給料何ヶ月かもらってお金貯まってからやな☆
と、その気になりつつもロードバイクを実際に買うつもりにはまだなってませんでした。
で、よく行くカフェでウェイターさんに
最近ロードバイクに興味があって♪買うならこれですかね~かわいぃでしょ?と話をすると、ウェイターさんも興味を持っているとのこと。
「そこの店そぅいぅ自転車売ってますよ。」
とカフェのすぐ斜め前の店を指す。...まじっすか!?
「その店の店長知ってますよ、うちにコーヒー飲みにくるんで。」
「僕17時で仕事終わりなんで一緒に行きますか?」
と、一緒に見にいくことに。
で、ウェイターさんと一緒に自転車やさんへ。
わー本気自転車いっぱぃ!すげー!!ってのがまず店入っての感想でした。
で、店内をいろいろ物色☆
うーん、ロードバイクかっこいぃ♪とそれだけで満たされようとしてた頃、ウェイターさんが「あれ?あれってさっき言ってたやつじゃないですか?」と店の窓の方にあるロードバイクを指す。
「ほら色も言ってたやつ☆」
なんとネットで見ててこれかわいぃ~て思ってたロードバイクが色まで一致してありました☆
でもロードバイクはサイズもあるので...
まぁとにかくそのロードにまたがらせてもらうことに。
で、サイズもピッタリ!
え~どうしよ~ロードは売り切れちゃったらまた来年まで待たなきゃならんていぅことも聞いてたし
・・・運命やー☆
欲しぃ。
けどお金が・・・
「ローン組めますよ」
との店員のお言葉。
なんて誘惑♪
買っちゃいました☆
こん感じでロードバイクを手に入れてしまぃ、サイクリング部に入部させてもらぃ、先輩達に助けられながら、初ロングライドは琵琶湖一週(琵琶湖大橋より上っかわ)無事に走れました☆
しまなみ海道、京都、とそれから走りましたが、楽しいです♪
ロードバイク買って良かったです。
3-1 検見崎
詩吟クラブが始まって!!
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詩吟クラブ 山本 和子 |
"詩吟ってどんなん?"
昨年4月にクラブが発足した当初は、恐る恐る声を出していたメンバーのみなさんでしたが、今では何となくコツがわかってきた感じでメキメキ上達され、"先生の素晴らしい歌声と楽しい話術で練習に来るのが楽しみです。""思いっきり大きな声を出してストレス解消してスッとしたわ。"と笑顔で帰って行かれます。
指導者の川村朋映先生は、昨年末の詩吟権者全国大会で優勝され、全国一の吟者になられた実力の方ですが、指導も大変上手で、毎回楽しくあっという間の1時間です。
昨年秋には、京都の一休寺や、楠正成父子別れの碑などの史跡をめぐるバス旅行に行き、合吟したり、お庭を散策したり、楽しい時間を過ごすとともに、古来からの文化を受け継いでいく大切さを実感しました。
健康のためにも、仲間と楽しく過ごすためにも、老後の趣味づくりのためにも、どうぞ皆さんも詩吟クラブにご参加ください。
今後の予定
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練 習 日: |
1月27日・2月10日・24日 17:30 ~ 18:30 |
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練習場所: |
ふきのとう会議室 |
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ちょっと興味のある方、見学も大歓迎です。 詳しくは、7病棟山本和子・栄養課西田和美まで。 |
詩吟クラブ
祝一年
~祝一年~
動 物 ク ラ ブ
みなさん、お久しぶりワン♪
僕は元気に、ちょっぴりやんちゃにしています。
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ぼくが阪本病院に就職して、ほぼ一年がたちました。途中、4ケ月間の研修期間がありましたが、同僚(職員)や患者さまとたくさんの人達とふれあえて、楽しかったワン♪ (代筆 動物クラブ 大田) |
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今年の目標は、OT活動の一環としてむさしと共に動物介在活動から動物介在療法まで実践することです。
がんばるぞ むさし!
ワンワワ~ン!! |
動物クラブ
100万回生きたねこ
診療情報管理室のとなりに臨床心理士さんたちのお部屋があり、そこに30冊程の絵本があります。
数は少なくても、古今の名作といわれる絵本がずらりと趣味良く揃っているようすは見ているだけでも楽しいものです。
そうした絵本は、患者さまに読んでいただいたり、聞いていただいたりしているそうです。
そこで今回はその中から、「100万回生きたねこ」(佐野洋子)という絵本の話です。
このお話は、100万回も不本意な生を生きて、死んでも100万回生き返っていた猫が、最後は生をまっとうして死んでいき、もう生き返らなかった。というものです。
その猫は、100 万回を飼い猫として生きて、飼い主にとても可愛がられながら死んでいくのですが、彼は人間に飼われるのが大嫌いなのです。「猫は〇〇(飼い主)がきらいでした」の表現が反復されています。それでまた生まれ変わってくるのです(生き返るのか、生まれ変わるのかは明確ではありませんが、どうやら生き返ってくるようです)。しかしまた、飼い猫として生きて死んで、を繰り返していきます。
100万人の人がそのねこをかわいがり、100万人の人がそのねこが しんだとき なきました。ねこは、1回もなきませんでした
そしてやっと彼はとりわけりっぱな野良猫として生きることができます。
ねこは はじめて自分のねこに なりました。ねこは 自分が だいすきでした
彼は人間に飼われることが大嫌いでしたから、以前の100万回の生では、飼い猫としての自分などはとうてい認めることができず、自分を好きになれずにいたはずです。むしろ彼は、強い自己憎悪を抱きながら生き、そして死ぬことを繰り返していたのではないでしょうか。飼い主への強い嫌悪は、実は自己憎悪や自己否定の衝動の転嫁であったのでしょう。健全な自己愛を獲得できていない猫が飼い主をはじめとする他人を愛することはできません。作者は、他者を愛せないことの不毛を説得力豊かに描くための状況設定として、「飼われることが大嫌いな飼い猫」というモチーフを効果的に用いているといってよいでしょう。
ですから、野良猫として生きたときの彼は、めす猫たちから求愛されても(ともかく彼はモテモテなのです)、
おれは、100万回も しんだんだぜ。いまさら おっかしくて!
と言い放ち、なかなかめす猫たちを愛するには至りません。
作者はこのことを端的に、
ねこは、だれよりも 自分が すきだったのです。
と説明しています。これまでの100万回との対比からすると、やっと野良猫になれたのですから、自然のなりゆきかもしれません。
彼は、最後には結ばれることになる美しい白い猫に対してさえ、当初は、
おれは、100万回も しんだんだぜ。
と、繰り返しアピールしたり、前世での経験を自慢するなど、自己顕示性の高い自己愛性パーソナリティを発揮してみせます。
こうした彼が、精神的に成熟するまでの、すなわち彼が自分自身よりも白い猫をより好きになり、彼女と結ばれるまでのラブストーリーを描く作者の筆運びと挿し絵は見事で大好きなところなので、興味のある方はぜひお読みいただきたいと思います。
わたしは、その後二人が結ばれて、白い猫が、たくさんのかわいい彼の子ねこを産んでからの、
ねこは、もう
「おれは、 100万回も・・・・・・」。
とは、けっして いいませんでした。
の「けっして」が、ここでの彼の幸福感をよく言い当てていて、うれしくなるのです。
そして彼女がおばあさんになったときに、はじめて彼はこう思います。
白いねこと いっしょに いつまでも 生きていたい
これは、愛着の発露としての一般的な願いであるだけではなく、彼のそれまでの100万回の過去との対比のうえでの、「このひとがいる、この生こそ。この生だけは」いつまでも生きていたいとの心の底からの思いに違いないでしょう。もっとも、読み手としては、さすがに今度ばかりは彼はもう生き返ることはないと解っていますから、「愛するひとといっしょにいつまでも生きる」ことがすでに叶わぬ願いであるのは自明なのですが。
ここで作者は、自分が生きることの「意味」をやっと見つけたときには死が迫っているという不条理を記述しているだけではないでしょう。死や別離が徐々に見えてくる(ここでは彼女の加齢をきっかけとして)ことによって、生きることの意味がより鮮明になることを示しているのではないでしょうか。それはあたかも絹糸の白さと輝きが黒紙に落ちたときにはじめてはっきりするのに似ているのかもしれません。ですから、彼の「白い猫と いっしょに
いつまでも 生きていたい」とは、ただ漫然とそこにいたいとの願いではなく、「このひとをもっともっと愛し続けて生きるのだ」という彼の決意が含意されているのだと思うのです。
そしていよいよ愛する白猫が死んだとき、
ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、ねこは、100万回もなきました。
朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。
ねこは白いねこのとなりで、しずかにうごかなくなりました。
彼が100万回も泣くこのエピソードを、泣いた数の帳尻合わせだけに読むとつまらない。一度も泣くことのなかったそれまでの 100万回の人生で欠落していたものすべてをこの一回で取り返せるほどのスケールの大きなものを白い猫との間で育んでいたからこそ、彼がここで100万回も泣くことができたのだと思うと、わたしはこの別離がなおさら悲しくなるのです。
そして最後のページは、
ねこは もう、けっして
生きかえりませんでした。
の一文だけで結ばれています。
やっと彼は生をまっとうして死んでいき、もう生き返ることはなかったというわけです。生をまっとうする過程で、彼は愛をもまっとうしたのです。
この本を何回読んでも泣いてしまう私はけっこう泣き虫ではあります。
この物語の主題は二つあると思います。
ひとつは、「良く生きることは良く死ぬことである」ということでしょうか。
飼い猫としての、むしろ彼にとっては忌避されるべきであった生と、彼が最も彼らしく生きた後に続く死との対比において、生よりもむしろ死の方が主役になり、ハッピーエンドを示しているのが愉快です。
もともと「生きる」ということ自体、すでに死を措定しているわけで、表裏一体。生は、オモテで肯定されるべきもの、死はウラで悲劇的なもの、と決めつけることは誤謬のそしりを免れません。この物語において、もう生き返らなくてもよい死を迎えることは、いい生と同値です。
やはり、人は良く死ぬために生きているのでしょう。
主題のもうひとつは、「愛は人生をまっとうする」ということではないでしょうか。
彼は最後の人生において、ひとりの女性を愛しきって生きました。それは、だれにでもなしうることではありながら、実際には難しく、なおかつ貴いことをやりとげたといえます。
彼の飼猫時代の飼い主は、戦争好きの王や船乗りや泥棒やサーカス団や少女やらときわめて多彩です。しかし、彼は飼い主には愛されましたが、だれをも愛しはしませんでした。だれをも愛することができなかったことこそが、100万回も彼が死にきれなかった、言い換えれば、生ききれなかったゆえんでした。
そしてついに彼は、最後の人生で、それまでの彼の数多くの武勇伝よりもむしろ、妻と子を愛し続けて生きたという普遍的なところで生を生き切って勝利したというべきでしょう。その意味で、作者は「愛することこそが生きることだ」と言っているようでもあります。
どうでもいいことですが、彼は飼い猫として100万回生きたあとで一回だけ野良猫として生まれているので、これは「100万と1回生きたねこ」の物語です。でも、彼ならきっと、「おれはその前の100万回にはけっして生きちゃいなかった。おれは白い猫に出会えた最後の一回の人生だけをほんとうに生ききって、そして死にきったのだ」と胸を張って言うのでしょう。
作者の佐野洋子は惜しくも昨年亡くなられましたが、「100万回・・・」はいつまでも読み継がれるべき絵本の一冊であることに異論はないと思います。手もとの「100万回・・・」はすでに98刷です。
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佐野洋子 作・画 講談社刊 |
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M.S.


